チームワークは豊かな心の育成と豊かな生活の実現を応援をします

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不善なる者もわれまたこれを善とせん(老子四十九章)


「いい人」 「悪い人」 と評価をつける人はいるけれど、しかしいつもその人が

必ずそうだとは限らない。

と、何か矛盾したことを言ってると思われるかもしれませんが、

どういうことかといいますと、


人の中には「いい人」といわれる者と、「わるい人」といわれる者がいるという方がいらっしゃいますが、

誰もがいういい人は、私も「いい人だろう」と認めます。

では、「悪い人」はゼッタイに悪い人で、いい人といわれるひとはいないのでしょうか?
 私は「悪い」と言われる人も「いい人」だと信じたいのです。

なぜなら、それは自分の都合であったり、噂であったり、その基準が人によってバラバラだからです。


この世の中の 「是非善悪」 「正しい、間違い」 というものが、

決して絶対のものではないですし、

「いい」とか「悪い」と考えるのは

川の流れのように、そのときその時代の移り変わりとともに
ドンドンと変わってしまうこともあるということです。

今は良いと思っていることでも、明日には世の中の論調が変わって
「悪い」とい評価されることもあるということです。

過去を振り返ってみると、そんな出来事はたくさんあるのではないでしょうか?

また、国や思想の違いによっても、この判断は変わってしまいます。

爆弾を装備して市民を巻き込むテロリスト達も、祖国では英雄扱いされる。


だから今、我々が思っている「いい」「悪い」も、その基準や思想によってはもしかして違うのかもしれません。


ならば、その考えを持たないようにすればいいのではないんでしょうか!?

「人間、だれも間違っている人はいない。」 

「みんなそれぞれの見地から正しいのだと。」


そすうることで、自分にも人にもやさしくなれるのではないでしょうか?

得難きの貨は人の行いを妨げしむ(老子十二章)

お金に四苦八苦していると「平常心」をなくす。という意味。


日常、生活するには当然のことながら「お金」が必要ですが、

お金儲けだけを目的に仕事や物事をしていると、お金のことばかり

頭にあり、本当はその仕事の意義や、しいては自分自身の存在意義

すら忘れてしまうことがあるということです。

 

お金ばっかりを追いかけ、お金儲けだけのために仕事をすると、「こころ」

「魂」が乱れてしまい、へ平常心を失い汚れた心になってします。

 

いや、お金儲けが「悪」だといっているわけではありません。

当然、社会生活をするにはお金はゼッタイに必要ですが、お金儲けを生きる目的に
するのではなく、人として、人間として、日常生活や社会生活を通して成長させて
もらえることもじっくりと噛みしめながら、人間らしい生き方を手に入れることが大切
なのではないでしょうか。


そして、「泥棒に追い銭」という諺もありますが、泥棒にも泥棒の言い訳、言い分がある

誰人も、自分を正当化するための理由があるということです。

「家族を養うためにはこうするしかなかった」、とか、「もった贅沢がしたかった」など。

誰もが自分が正しいと思っているからこそ、すべての人々が正当化や言い訳をする

わけですが、自分の言い分だけを通すことは「自分の我」を通していることに気付き、

話し合い、理解しあえる、対話という人間らしい行動をとることが一番大切なのでは

ないでしょうか?

 

頭ではわかっていて、人に指導したり、インストラクターや講師をする人でも、これが

出来ない人もいるのが残念で仕方ありません。


お金は大切ですが、お金は人のお役に立った分しか入ってきません。

何故なら、
お金=収入は、その価値に対する対価であり、自分の命の代償なのですから!

勝ちて美とせず(老子三十一章)

これは勝っても誇らないことは美しいという意味でありますが、

人の謙虚さを大切にしなさいという意味だと思うのです。


特に日本は「和」の国。

平和の和。 人の和の和。和みの和。

私たち互恵支援ネットが大事にしたい「信念」ですが、これは争いの思考ではなく、

勝ち負けをという考えを用意しない、物事の正しい間違いを決め付けない、そんな

考えが「和」の考え方だと思っています。


得てして人は、自分が正しいことを主張したいあまり、自分を守りたいがあまり、

人の道を踏みはずすことがあります。


自分が約束したことを自分を守らないために、自分を正当化するための行為が

裁判制度だと思います。

どちらが正しい、どちらが間違っているを第3者によってジャッジさせようとする考え。

私からすれば、無責任極まりないやり方だと思います。

自分で言ったことを自分がせず、都合が悪いからといって弁護士を雇い、自分の正当性を

ねじ込むやり方。

まさに「和の道」から離れ、人として、個人の責任制としてを放棄するやり方をする人がいます。

哀しいですね。


自分が引き起こしたことを他人のせいにて、それを法によって判断をゆだねるというやり方。

言葉が使えないなら別。会って話しができない状態なら別。

そんな族ほど自分の足でわざわざ弁護士事務所へ足を運び、自分の主張をしっかりと話す。


もう、本末転倒ですね。


この覇道的なものの考え方と行動は、相手の人を傷つけ哀しませる結果になりますので、

人間としての心を持っているならば、自分で気付き、そんな行動には出ないように

しましょうね!


人の道をあるくならば、謙虚さと、思いやりをわすれず、自分の側だけで物事を片付け

ないように心がけましょう。

先日書いた「与うるは善く仁、言は善く信(老子八章)」

言ったことをしない人は嘘つきとなってしまい、人間社会では信頼を失ってしまいますよ!

和の道を歩く人は「勝ち負けは」はどうでも言いこと。 

それよりも互いによって何がベストかを一緒に考えられる人が、和道に生きる人

だと思います。

(口では言えて頭でわかっていながら、まったく行動に移せない人がいますが・・・。)

 

争い・奪い合いの社会より、和の社会のほうが人の道だと思いませんか!?

幼稚園で学んだレベルの「お友達とは仲良くしましょう!」が、大人になっても

一番大事何のではないでしょうか。

正直、和道ってこんなもんだと思うのですが・・・・。  

勝ちて美とせずこそ和道かな。

功成り名遂げて退くは、天の道なり(老子九章)

これは「退く時には勇気がいる」という論語です。

しかも、名を上げたことの場合は、退く時にはさらに勇気がいるということです。

地位や、名誉、またそれに伴うプライドがあればあるほど、

思い入れがあればあるほど引き際に勇気がいります。


私もそんな経験があります。

5年ほど前に物販生活20年を退き、今の仕事のきっかっけとなる

カウンセラーになるときのこと。


未来が約束されたわけでなく、必ず成功すると決まっていることなど

ありません。

 

しかし、時代のながれといおうか、自分に吹いている風と流れが

その様になっていました。

まさに、天のお導きといっても過言ではありません。

なぜならば、今私は物を売る仕事をしていませんから。。。

仕入を行い、在庫を持ち、その商品を販売して利益を得て生活するという、

その形態の経済活動は行っておりませんからから!

 

しかしその時は、正直「勇気」がいりましたね。 「怖かった」ですね。


しかし、「引き際こそが大事だ」と、今になって分かることがあります。

「諦める」のではなく、「手放す」こと。 「決断する」こと。

そうすれば、楽になりました。


明るい未来を自分が用意したいのであれば、たとえそれが功名をあげたことだと

しても、次の時代への変化だと風を感じ、流れにあわせ次の時代へとバトンタッチ

していくものではないでしょうか。


執着すればするほど、自分自身に矛盾が生まれ、つらく苦しかったことを思い出し

ました。

これは体験からの学びです。


皆さんはどうですか? そんな経験はありませんか?

いずれば生、入れば死(老子五十章)

ちょっとグロテスクな文章だと感じると思いますが、
実はとてもシンプルなことで、それほど大事だということです。

これは、人が生まれて成長していく中で身につけた「一般常識」について
指摘した文面です。

略して言うと、「パラダイム(自己概念)から出ると自由な発想が手に入るが、
パラダイム(自己概念)の中にいるばかりでは、社会通念だとか、一般常識と
いう概念にしばられ、自由を失ってしまい自分を失ってしまうということです。」

パラダイムとは、「思い込み、決め付け、人生観・価値観、判断の基準」
のことです。

よくある話、「良い学校に入って、良い学校を卒業し、良い会社に入って仕事を
すると、幸せになれ、良い人生になる」と思い込んでいるケースです。

それが悪いことだというのではなく、私たちが気をつけたいことは、自分はこんな
パラダイムを持っているという自己認識と、それを自分に使うだけでなく他者や
子供たちの未来に、大きく影響してしまうということです。

子どもに対しては、今問題視されている「教育」へとつながっていくと思うのです。

小学校から塾通い、たくさんの知識を詰め込み、同年代と点数や結果で競争し、
良い学歴をつくる事が、良い人生を作るという大人の概念をつくってしまうことです。

本当にそれがよい人生を送れるといえるのでしょうか?

子どもというのは、無邪気に友達と遊んだり、スポーツをしたり、冒険をしたりと、
果敢な年頃で、好奇心を養ったり、ワクワクすることをしたりして楽しい経験をする
ことが一番大事なのではないでしょうか。

子どもらしいことをして、子ども同士の中でいろんなことを学び経験することが
もっとたくさんあるのではないでしょか。

そしてこのパラダイム、思い込みや決め付けは、物事を固定的に捉えてしまう
ため、同じような結果になること私たち大人がよく言いませんか? 

「私また同じことやってる~。。。」とか、
「あれ~っ、こんなはずじゃなかったのに~。。。」

なんていうこと。

これって、自分のパラダイムが判断した結果起こることで、
だからそうなってしまうことに、そろそろ気付かないと、今後もまたぞろ同じ結果
になる可能性が高いのです。

これから脱皮するためには、自己概念、すなわちパラダイムから出るということです。

自分の考えに柔軟性を持たせることです。

そうすれば、柔らか頭になり、もっと自由な思考の世界へ入ることができ、
「駄目だと思っていたことが、いや、できるかも!」ということもあり、不可能が
可能の世界へ考えが移行できたりするのです。

いかがでしょう。

私たちの人生、人間らしく、人に優しく、思いやりを持って、自由で生きていくために
この自己概念から出てみられるのは。

そうすれば、きっと柔軟性を持った自分になって、自分に対しても他人に対しても
まろやかになれて、もっともっと自由な楽しい人生が手に入ると思いませんか!

無用の用(老子十一章)

 う~ん。 意味分からな~い。 ッて感じですが、

何も無いから意味がある。 という意味の解釈でよいのではないしょうか。

老子十一章にこのような言葉があります。

「埴(しょく)を挺(こ)ね、もって器を作る、その無に当たりて器の用あり」

これは粘土をこねて茶碗や花瓶を作る。
このとき、創る側の人は中に入るものがあるものとしてつくる。
茶碗も花瓶も空っぽで「無」の部分があるからこそ役に立つというものです。

外側にある茶碗や花瓶の形があることも大切だけど、中が空っぽだからこそ
ご飯や味噌汁、お花が入ってこそ本当の価値が生まれるということです。

私が今日の論語から気付かされたことは、

「目に見えないからといって、すべて無意味ではない。」
「形が無いからこそ役に立つことがある。」 


ということです。

人は得てして、形のあるもの、目に見える物質的なものばかりを重要視する傾向がありますが、発想の逆転で、「無」があるからこそ、その形あるもの活かされてくるものがあるということを知ったということです。
「無がある」という言葉には矛盾を感じられますが、でもこの論語から「無」があるという意味が分かりました。
私は「無」は想像力(創造力)だと思います。
「空想」とか「夢物語」とか「架空」の事ですが、日常社会に置き換えると、「目標」であったり、「願望」や「欲求」であったりと、まさに目に見えない世界ですが普段からも使っていると思いませんか。

「収入をあと○○万円増やしたい」 「体重を○○キロ減らしたい」
「会社から言われるノルマを達成したい」 など。。
ね。 日常の中にも「無」があったでしょ。

もしかすると「やる気」というものが、人間という器にとっての「用」なのかもしれません。

これは、人が「夢や希望」も持つことと同じだと思いますし、その未来を創る創造力がとても大切なことだと私は思います。

「無用の用」

私にとっての無用の用はなんだんだろう・・・。

簡単な言葉で言うと、「ワクワク」かな!  

皆さんはなんですか?

与うるは善く仁、言は善く信(老子八章)

「人に物を与える時は仁愛のこころでおこない、報いを求めてはいけない。

言ったことは必ず実行して、信をつくななくてはならない。」という意味。


この文章は「上善は水のごとし」のあとに続く名句で、水は万物に

利益を与えますが、それに対する報酬はひとつも求めていません。


この兪に人に与えるには、「これからあげるからこうして欲しい」とか、

あれをやったのにどうして感謝してくれないのか、というような報い

の態度を求めてはいけないということです。

あれこれと報いを求めたとたんに、いてと衝突したり、反目したり

することになります。


天地自然の中に水なくして存在するものはひとつもありません。

水はあらゆる草木の生命に信を尽くしていますが、けっしてその相手のあり方について、
「いい」とか「悪い」とか、「こうしなさい」「ああしなさい」と指示命令したり支配したりする
ことはありません。

ただひたすら「尽くす」

非図は争わないから自由自在なのですね。


水の存在は偉大であり、かつ自由である。

水のように生きる道を、人としての命の道を歩いてゆきたい・・・・。

これからの時代の中で、あるいは、互恵支援ネットでの人との関わり方の姿がここにある
ような気がします。

上善は水のごとし(老子八章)

上善水如・・・日本酒のはなしではありません。 (笑)

というより、この日本酒、甘くて臭みが無くて飲みやすいですね!
私が大好きな日本酒です。


いやいや、そうではなくて!老子の論語のお話。


この文章は、私の心を向上させてくれるものでした。

まさに、人としての理想的な生き方がここにあるような気がします。


それは、水というのは決して何かと争わないし、戦わない。

丸い器に入れば丸になり、四角の器に入ればその形に合わせる。

どんな形にも、さからわず、柔軟であり自然な存在です。


しかも、環境や状況によって様々に変化できる。

沸騰すれば気体となり、温度が下がれば氷となって固体になります。

環境によって様々変化する。しかし、基本は液体なのです。

それは自らの力で変化するのではなくて、すべて周りの環境によって変化するのです。

実に自然で、すべてこだわらず受け入れないと、こうならないですよね。

 

また、水なくしてこの地球の生命体は生存できない。

地球のすべての生命の源です。


「水」はそれほど重要な存在でありながら、決しておごらず高ぶらず、

じつに謙虚な存在だと私は思います。


もし水は言葉を話したとしたら、なんと話すでしょうね?

とても優しく、おおらかで、すべてを包み込むような、そんな言葉なんでしょうね!

 

わたしも、そんな風に生きてみたい。  

これが理想的な生き方だといった理由です。


普段、そうではないエゴの自分がいるからこそ、そんな風に生きてみたいと心底思いました。

この「上善は水の如し」・・・・水から学び、水から気付かせてもらいました。

注釈:上善とは「最上」という意味です。

 

道の道とすべきは常の道にあらず(老子一章)

今日から論語からいろいろと学ぼうと言う企画を書きます。

「論語は難しい!」という方のために、簡単に私流の言葉に置き換えて説明していきたいと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします。

まずは、第一弾

「道の道とすべきは常の道にあらず」(老子)

------------幸福な道は常識の中にはない-----------------

人としていい生き方、理想的な生き方(道)ができることを一般的にみんな望んでように思えますが、本当にそうなんでしょうか?

いい学校に行き、いい会社に就職し、そして地位や名誉を得て、出世することが果たして人の道なんでしょうか?

競争や争い、勝った!負けた!の生き方が「人として生きる道」なのでしょうか。

わたしはそうは思いません。

いくら地位や名誉があったところでも、家族や友人がいないと虚しいもんです。
また、お金がいくらあったとしても、その使い道が「活き銭」じゃなければ、価値は低いものとなってしまいます。

結局なにが人の道なのかというと、「人間としての心の豊かさ」「人と共に活きる人生の時間とエネルギー」なのではないでしょうか。

日常の世界の中で「数字」を重んじて日々踊らされ、「愛」という感性を忘れ、人情を忘れ、個人や企業の目標達成を優先しながら生きる生き方が人間らしいいい生き方の道といえるしょうか。

奪い合いの人間関係、自分のためだけの生き方をして、人の道を生きたといえるのでしょうか!?

老子はおそらく、もっともっと人間らしく生々しく生きることを大切にし、自然とともに地球上の一存在として道を歩くことを伝えたかったのではないかと私は思います。

本当に道(人のいい生き方)というのは、「和」の精神が流れるものだと私は思うのです。

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